第六回 英語が「邪魔」だと思うとき

By 佐々木南実

 「英語は確かに便利なコミュニケーションのツールだけど、本当に感情を伝えたいと思うときにはかえって邪魔だと思うときもあるのよ。」と言っているのは、スペイン人のPilarです。スペイン生まれの彼女は、子供時代のほとんどを家族とともにスイスで過ごしたということで、母語であるスペイン語のほかにもドイツ語と英語を解すといいます。

  彼女は日本語が話せませんし、私はスペイン語もドイツ語もわからないので、私とPilarとの会話はいつも英語です。だから、二人とも「英語は便利だな。英語が話せて得したな。」と思っています。「でもね、あなたが知っている私は、私なんだけれども、私のすべてじゃないの。」と、彼女は言うのです。先の言葉は、そんなときにでてきたものでした。なるほど、微妙なところなのですがその気持ちは私にもわかります。では、正確にはどういう意味なんでしょう?

 彼女は韓国人のルームメイト (イヌワという名前の女性です) と一緒に住んでいます。イヌワがなにかすごく感動したことなどを一生懸命Pilarに伝えようとしているとき、英語の言葉が追いつかなくて、お互いにもどかしい思いをするときがあるのだそうです。そんなときには、もしもイヌワが英語じゃなくて自分自身の母語で語ってくれたら、自分は韓国語は一言もわからないけれど、それでもそのほうが彼女の気持ちがもっとよくわかるのではないかと思うのだそうです。同じように、Pilarにも、スペイン語でしか伝えられない気持ちがあります。そんな気持ちを英語に翻訳して伝えることはできるけれど、そこで伝えているのはもはや “気持ち”ではなく、“気持ちの解説”でしかなくなってしまうのです。そういえば、アメリカ人のご主人を持つ日本人の女性が、「主人は普段は日本語で話してくれるけど、けんかになって本気で怒ると、パッと英語に変わるの。だからその瞬間、あ、キレたなってわかるのよー。」と笑っていたのを思い出します。

 以前、その国の言葉と文化は表裏一体で、互いを抜きには考えられないと書きましたが、ここで言う「文化」はもっと身近に言うと「慣習」です。嬉しいこと、楽しいこと、美しいと感じること、逆に不愉快なこと、腹立たしいこと_。“気持ち”として表現されるこうしたことは、その人が育ってきた言語集団の「慣習」に大きく関わっています。

 秋の虫の声にもののあはれを感じ、枯山水の静謐に居住まいを正す日本人。月明かりに狂気を連想し、幾何学的に剪定されたシンメトリックな庭園にステイタスを感じる欧米人。例えば日本人にとって「侘」「寂」「粋」「伊達」など、母語でしか表現することのできない“気持ち”はたくさんあります。Pilarは「英語が邪魔だと思うときもある」といいますが、でもそれはすでに彼女が英語でコミュニケーションをとれているからこそのもの。国も文化も違う相手が感動した気持ちをもっと知りたいと思う機会に恵まれてるなんて、とても素敵なことじゃありませんか。確かに母語のレベルで共感し合える共通の言語があれば一番いいのだけれど、それがない場合は共通のプラットフォームが必要になりますし、多くの人にとってそれはやはり英語なのです。文法が多少怪しくても、ボキャブラリーがちょっと貧弱でも、とりあえずコミュニケーションしてみないことには始まりません。そこからいろいろな世界が広がっていくわけですから。

 おかげで、Pilarも私の作る「ざるそば」を食べて日本の「粋」の入り口に立つことができるし、私も本場仕込みのパエリアをご馳走になってスペインの「espiritu」(心意気みたいなもの)の香りを感じたりできるわけです。
おそばを見て「木のような色をしたパスタね」と驚きを隠せなかった彼女 (味はおいしいといってくれましたが)。
今度はもっと華やかな彩りの日本料理をご馳走するからね!

(初出: アルク刊 "kids com" 2001年6月号)

 

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